日本のトップに君臨した大物政治家、田中角栄が拘置所へ。米国議会の公聴会から発覚したスキャンダルは、前首相の逮捕という前代未聞の疑獄事件へと発展していった。
「田中角栄」という宿題
文:田原総一朗(ジャーナリスト)
田中角栄逮捕
昭和51年(1976)7月27日、逮捕後、東京地検から東京拘置所へ向かう田中角栄前首相
田中角栄とロッキード裁判は、長い間わたしにとって解答の出せない重い宿題であった。
わたしは「中央公論」昭和51年(1976)7月号に「アメリカの虎の尾を踏んだ田中角栄」というレポートを書いた。これがフリージャーナリストとしてのスタートだった。
田中角栄はオイルメジャー(国際石油資本)依存からの脱却を図って、積極的な資源外交を展開した。そのことがアメリカに睨まれて、アメリカ発の「ロッキード爆弾」に直撃された、という問題提起であった。
このレポートの取材をしたことで、毀誉褒貶の極端に激しい田中角栄という政治家に、それゆえに強い興味を覚え、田中がロッキード社から丸紅経由で5億円の賄賂を受け取ったというロッキード事件に注目せざるを得なくなった。
ロッキード事件は首相の犯罪として裁かれ、田中角栄の死をもって、平成5年(1993)12月、「被告人死亡につき公訴棄却」となって歴史の表舞台から消えた。
しかし、わたしにはいまだに釈然としない少なからぬ事柄がある。
ロッキード事件をあらためて点検するために、事件の捜査、そして裁判に関わった検事や弁護士たちに、ときには無理を承知で頼み込み、出来る限り直接会って話を聴いた。
すると、思いもかけない新事実や、定説を覆す証言が、少なからず出てきた。
特に、事件の捜査を担当した東京地検特捜部検事の一人は、匿名を条件に田中角栄の有罪判決をひっくり返す驚くべき話をしたのである。
「丸紅の伊藤宏が、榎本敏夫(元首相秘書官)にダンボール箱に入った金を渡した4回の場所については、どうも辻褄が合わない。被疑者の一人が嘘を喋り、担当検事がそれに乗ってしまった。いままで誰にも言っていないけれど、そうとしか考えられない」
検事自らが事実認定を否定
角栄逮捕
田中角栄の逮捕を伝える7月21日付朝日新聞夕刊
5億円の授受があった4回の日時と場所は、実は検察の書いた筋書きとは違う──検事が自らの発言で、事件の最も重要な根拠となった事実を否定したのである。
4回の場所は、英国大使館裏の道路上、伊藤家の自宅に近い公衆電話ボックスのそば、ホテルオークラの駐車場、そして伊藤の自宅となっている。
実は、東京地検特捜部検事で、ロッキード社幹部のコーチャンから証言を取るためにアメリカに飛んだ堀田力も「(4回の場所は)もともと不自然で、非常に子どもっぽいというか、素人っぽいというか、おそらくそういうことをしたことのない人たちだとしか考えられない」と率直に語っている。
「4回の日時と場所が違う」と発言した検事は、それを“被疑者の罠”だと話した。被疑者が担当検事の追及につい迎合したくなり、検事の興味をひきそうな話、あるいは単語を喋ってみる……。“被疑者の罠”とは興味深い言葉だが、とすると、一審、二審、そして最高裁の裁判官たちも“被疑者の罠”に引っかかり、誤った判決を下してしまったということになるのか。
捜査が検察の筋書き通りに運ぶきっかけになったのは榎本敏夫が全面的に容疑を認めたためなのだが、実はその際に検事が産経新聞を二つ折りにして、榎本の目の前に晒したのだ。そこの大見出しで「田中、5億円の授受を認める」と書いてあり、榎本としては“親分”が認めたのならば、それに従うしかない、と思ってしまった。もちろん、田中角栄は授受など認めてはいなかった。
間に合わなかった戦術変更
記憶にございません
国会の証人喚問で証人たちがたびたび発した言葉。のちのリクルート事件(昭和63年)などでもたびたび使われた表現。昭和51年3月1日に行われた第2次証人喚問。証人は証言する前に宣誓書に署名する。偽証すると刑事罰を科せられる可能性もあった
さらに4回の授受について、被告たちに取材すると、検察側が指示した場所を、2度、3度変更している例が少なからずある。
「4回の授受の筋書きの矛盾をいつ弁護団に突かれるのかと誰もがはらはらしていた」
“被疑者の罠”を告白した検事が語った。実は、途中から構成が変わった弁護団は“4回の授受”の日時と場所の少なからぬ矛盾を徹底的に突く戦術に変え、中核の石田省三郎弁護士が、田中角栄を説得するために昭和60年2月24日、田中邸に出向いた。
ところがこの日、田中は朝からオールドパーをがぶ飲みしていて、とても話をできるような状態ではなかった。
それもそのはず、これに先立つ2月7日に、竹下登を担いだ小沢一郎、梶山静六、羽田孜、橋本龍太郎、小渕恵三、渡部恒三たちが、田中派の派中派閥である「創政会」を旗揚げしたのだった。
最も信頼していた側近たちに裏切られた田中は激怒し、連日アルコール漬けになっていた。オールドパーを呷りつづける田中を見て、石田は説得するのを諦め、後日出直すことにした。
その3日後、田中角栄は脳梗塞で倒れたのである。話し合いのチャンスは二度となかった。
平成7年2月22日、最高裁は、ロッキード裁判丸紅ルートの判決を下した。田中は平成5年12月16日に死去していたが、一、二審の有罪判決を認めたことは、田中に対する懲役4年、追徴金5億円の判決が事実上確定したことを意味していた。
プロ野球・マツダオールスターゲーム(7月24、25日)の監督推薦選手が6日発表され、北海道日本ハムファイターズから金子誠、高橋信二、糸井嘉男の3選手が選ばれた。ファン投票も含め、球団から計7人が出場するのは82年以来の多さになる。
チームから唯一の初出場は糸井選手。投手から野手に転向して4年目の27歳は2日に発表された6月の月間MVP初受賞に続く朗報に、「信じられないことが立て続けに起こっている。スター選手の中でやるのは緊張しますね」と満面の笑みを浮かべた。
本職は捕手ながら、今季は主に一塁を守る高橋選手は「少し複雑な気分だけど、セ・リーグの名のある投手との対戦は楽しみ」。金子選手は「例年にない成績を残しているご褒美かな」と話した。ともに3回目の出場となる。
ファン投票ではダルビッシュ有、武田久、稲葉篤紀、二岡智宏の4選手が選出。第1戦は札幌ドームで行われる。
日本のトップに君臨した大物政治家、田中角栄が拘置所へ。米国議会の公聴会から発覚したスキャンダルは、前首相の逮捕という前代未聞の疑獄事件へと発展していった。
「田中角栄」という宿題
文:田原総一朗(ジャーナリスト)
田中角栄逮捕
昭和51年(1976)7月27日、逮捕後、東京地検から東京拘置所へ向かう田中角栄前首相
田中角栄とロッキード裁判は、長い間わたしにとって解答の出せない重い宿題であった。
わたしは「中央公論」昭和51年(1976)7月号に「アメリカの虎の尾を踏んだ田中角栄」というレポートを書いた。これがフリージャーナリストとしてのスタートだった。
田中角栄はオイルメジャー(国際石油資本)依存からの脱却を図って、積極的な資源外交を展開した。そのことがアメリカに睨まれて、アメリカ発の「ロッキード爆弾」に直撃された、という問題提起であった。
このレポートの取材をしたことで、毀誉褒貶の極端に激しい田中角栄という政治家に、それゆえに強い興味を覚え、田中がロッキード社から丸紅経由で5億円の賄賂を受け取ったというロッキード事件に注目せざるを得なくなった。
ロッキード事件は首相の犯罪として裁かれ、田中角栄の死をもって、平成5年(1993)12月、「被告人死亡につき公訴棄却」となって歴史の表舞台から消えた。
しかし、わたしにはいまだに釈然としない少なからぬ事柄がある。
ロッキード事件をあらためて点検するために、事件の捜査、そして裁判に関わった検事や弁護士たちに、ときには無理を承知で頼み込み、出来る限り直接会って話を聴いた。
すると、思いもかけない新事実や、定説を覆す証言が、少なからず出てきた。
特に、事件の捜査を担当した東京地検特捜部検事の一人は、匿名を条件に田中角栄の有罪判決をひっくり返す驚くべき話をしたのである。
「丸紅の伊藤宏が、榎本敏夫(元首相秘書官)にダンボール箱に入った金を渡した4回の場所については、どうも辻褄が合わない。被疑者の一人が嘘を喋り、担当検事がそれに乗ってしまった。いままで誰にも言っていないけれど、そうとしか考えられない」
検事自らが事実認定を否定
角栄逮捕
田中角栄の逮捕を伝える7月21日付朝日新聞夕刊
5億円の授受があった4回の日時と場所は、実は検察の書いた筋書きとは違う──検事が自らの発言で、事件の最も重要な根拠となった事実を否定したのである。
4回の場所は、英国大使館裏の道路上、伊藤家の自宅に近い公衆電話ボックスのそば、ホテルオークラの駐車場、そして伊藤の自宅となっている。
実は、東京地検特捜部検事で、ロッキード社幹部のコーチャンから証言を取るためにアメリカに飛んだ堀田力も「(4回の場所は)もともと不自然で、非常に子どもっぽいというか、素人っぽいというか、おそらくそういうことをしたことのない人たちだとしか考えられない」と率直に語っている。
「4回の日時と場所が違う」と発言した検事は、それを“被疑者の罠”だと話した。被疑者が担当検事の追及につい迎合したくなり、検事の興味をひきそうな話、あるいは単語を喋ってみる……。“被疑者の罠”とは興味深い言葉だが、とすると、一審、二審、そして最高裁の裁判官たちも“被疑者の罠”に引っかかり、誤った判決を下してしまったということになるのか。
捜査が検察の筋書き通りに運ぶきっかけになったのは榎本敏夫が全面的に容疑を認めたためなのだが、実はその際に検事が産経新聞を二つ折りにして、榎本の目の前に晒したのだ。そこの大見出しで「田中、5億円の授受を認める」と書いてあり、榎本としては“親分”が認めたのならば、それに従うしかない、と思ってしまった。もちろん、田中角栄は授受など認めてはいなかった。
間に合わなかった戦術変更
記憶にございません
国会の証人喚問で証人たちがたびたび発した言葉。のちのリクルート事件(昭和63年)などでもたびたび使われた表現。昭和51年3月1日に行われた第2次証人喚問。証人は証言する前に宣誓書に署名する。偽証すると刑事罰を科せられる可能性もあった
さらに4回の授受について、被告たちに取材すると、検察側が指示した場所を、2度、3度変更している例が少なからずある。
「4回の授受の筋書きの矛盾をいつ弁護団に突かれるのかと誰もがはらはらしていた」
“被疑者の罠”を告白した検事が語った。実は、途中から構成が変わった弁護団は“4回の授受”の日時と場所の少なからぬ矛盾を徹底的に突く戦術に変え、中核の石田省三郎弁護士が、田中角栄を説得するために昭和60年2月24日、田中邸に出向いた。
ところがこの日、田中は朝からオールドパーをがぶ飲みしていて、とても話をできるような状態ではなかった。
それもそのはず、これに先立つ2月7日に、竹下登を担いだ小沢一郎、梶山静六、羽田孜、橋本龍太郎、小渕恵三、渡部恒三たちが、田中派の派中派閥である「創政会」を旗揚げしたのだった。
最も信頼していた側近たちに裏切られた田中は激怒し、連日アルコール漬けになっていた。オールドパーを呷りつづける田中を見て、石田は説得するのを諦め、後日出直すことにした。
その3日後、田中角栄は脳梗塞で倒れたのである。話し合いのチャンスは二度となかった。
平成7年2月22日、最高裁は、ロッキード裁判丸紅ルートの判決を下した。田中は平成5年12月16日に死去していたが、一、二審の有罪判決を認めたことは、田中に対する懲役4年、追徴金5億円の判決が事実上確定したことを意味していた。